あさしょうりゅう2010/02/05

入門
15歳でモンゴル相撲を始め、ナーダムの相撲少年の部で優勝した。

1997年に日本の明徳義塾高校に相撲留学し、2年後に若松親方(当時、現高砂親方)によるスカウトにより、高校を中途退学して角界に入門した。

幕内昇進以後
2002年/2003年
2001年1月場所に新入幕し、翌年7月にモンゴル出身の力士として初めて大関に昇進し、同年11月場所、翌年1月場所に連続優勝して横綱に昇進した。ただし2002年9月の貴乃花戦に敗れた際、花道を引き上げる際に「畜生!」と大きな声で叫んだり、支度部屋で「怪我をしている左足を狙えばよかった」と発言したりするなど、当時からその品格が問題視されていた。

2003年、モンゴル人女性と結婚し、またこの年、長女が誕生した。同年5月場所、モンゴルの先輩旭鷲山との対戦で敗れた際土俵上で審判に対して物言いを要求、肩がぶつかった旭鷲山をにらみつけ、さがりを振り回した。さらに翌7月場所の対戦では髷を掴み反則負けとなり、取組後の風呂場で口論となった後に旭鷲山の車のサイドミラーを破壊。この場所は頸部挫傷により途中休場した。

2004年/2005年
2004年1月場所・3月場所で、2場所連続全勝優勝(30連勝)を果たした。

5月場所は6日目(同年5月14日)に平幕の北勝力に敗れて連勝が35で止まり、最終的にこの場所は2敗となったが、千秋楽(5月23日)にモンゴルの後輩、白鵬が立合いの変化で北勝力を破って「援護射撃」を果たすと、自身も結びの一番に勝って迎えた優勝決定戦で北勝力を破り3場所連続優勝を達成。部屋、一門の枠を超えて白鵬と喜びを分かち合った。

7月場所も13勝2敗で優勝。1996年の貴乃花以来となる、4場所連続優勝。2004年11月場所から7場所連続優勝(従来は1962年7月場所~1963年5月場所、1966年3月場所~1967年1月場所に2度記録した大鵬の6場所連続)、2005年には年間6場所完全優勝(従来は1966年の大鵬、1978年の北の湖、1986年の千代の富士、2004年の自身の5場所)、年間成績84勝6敗(従来は1978年の北の湖の82勝8敗)と、様々な記録を更新した。

2006年/2007年
8連覇を目指した2006年1月場所では11勝4敗に終わる。翌3月場所は優勝したものの白鵬に決定戦進出を許し、5月場所では2日目の若の里戦に敗れた際右肘を痛め3日目から途中休場するなど、同年前半は力の衰えも指摘され始めたが、7月場所に復帰すると11月場所の全勝を含め翌2007年1月場所まで4場所連続優勝し、史上5人目、外国人力士では初となる20回目の優勝を果たした。同場所千秋楽翌日の1月22日、『週刊現代』に自身の八百長疑惑が掲載された。後に朝青龍を始めとする現役力士と協会が起こした訴訟で、東京地方裁判所は被告である講談社側に、朝青龍へ1100万円を支払うことを命じた。詳細は武田頼政を参照。

翌3月場所は初日から2連敗。その後は連勝を続け、千秋楽で千代大海を立合いの変化で破って13連勝し優勝決定戦に持ち込んだものの、決定戦では逆に白鵬に立合いの変化で敗れた。

さらに5月場所は9連勝の後10日目に安美錦に敗れると調子を崩し、12日目からは4連敗で10勝5敗に終わり、横綱昇進後初めて2場所連続で優勝を逃すとともに、白鵬の連覇と横綱昇進を許した。翌7月場所では初日に再び安美錦に敗れ、前場所から続けて5連敗を喫した。これらの不振に関しては前述の八百長疑惑報道の影響も指摘された。2日目からは14連勝し、3場所ぶりの優勝、新横綱白鵬に対し先輩横綱としての意地を見せるとともに復活を果たしたかに見えた。

しかし同場所後の7月25日、「左肘内側側副靭帯損傷、左尺骨神経障害、急性腰痛症、第5腰椎疲労骨折で約6週間の休養、加療を要する」とした診断書を協会に提出、夏巡業(8月3日から20日まで)の不参加を届け出たが、当人がモンゴルで中田英寿らとサッカーをしている映像が同日報じられ、仮病疑惑が噴出[1]。巡業部は帰国後の巡業参加を拒否する方針を固め[2]、8月1日には日本相撲協会から2場所出場停止、減俸30%4ヶ月、11月場所千秋楽までの謹慎の処分を受けた。

当時の理事長の北の湖親方はこの際「あいつは意外と気が小さいから」と述べて、角界から朝青龍が去ってしまう可能性を危惧したとも言われている[3]。また同時に師匠の高砂親方も減俸30%4ヶ月の処分を受けた。この処分に対し日本並びにモンゴルのマスメディアが大々的に報道、在モンゴル日本大使館ではこの処分に対して市民が抗議デモを起こした。また在日モンゴル大使館は7月31日、「サッカーはモンゴル国主催のチャリティー大会のイベントであり、日本外務省を通じ半ば強引に参加を要請したもので、大変なこととなり迷惑をお掛けした」と日本相撲協会に対し謝罪した[4]。

同月27日には、日本経済新聞等で「東京国税局の税務調査を受け、テレビ番組やCMの出演料などの一部を申告していなかったなどとして、2005年までの3年間で約1億円の申告漏れを指摘されていた」ことが報道された。追徴税額は過少申告加算税を含め約3000万円であった。

同年8月6日には、心療内科医・本田昌毅の往診により「神経衰弱および抑うつ状態」との診断を受けていた[5]ものの、後に協会医務委員会が紹介した精神科医により解離性障害と診断されたと発表。協会は謹慎処分を一部訂正しモンゴルへの帰国を承認した。これを受け同月29日に治療をするとしてモンゴルへ帰国した。

9月場所を出場停止処分により全休したため、11月場所では新横綱であった2003年3月場所以来となる西横綱となった。

11月場所千秋楽(11月25日)を終えたため、当初の決定通り謹慎を解除され、11月30日にはモンゴルから93日ぶりに再来日した。同日夕方に謝罪会見を開き、朝青龍本人が一連の騒動について謝罪し、会見後は臨時横綱審議委員会(横審)で謝罪と経緯説明を行なった。

12月2日から大分県豊後大野市で始まる冬巡業に参加して、7月場所千秋楽以来133日ぶりに土俵に復帰した。初日の横綱白鵬戦では寄り切りで勝利した。

12月21日朝、横綱審議委員会で脚本家の内舘牧子が事前通告なしに稽古を視察するため高砂部屋を訪れたが、朝青龍の稽古が休みで肩すかしを食う。さらに内舘が朝青龍に「癌を克服し現役に復帰したプロレスラーの小橋建太を見ならいなさい」と発言した。

2008年
2008年1月13日、1月場所で前年7月場所以来の土俵復帰。約5年ぶりの西横綱となったためか、初日の土俵入りの際、西横綱は本来は左足から土俵中央へ歩み寄るところを、長年東横綱として君臨していた癖で、右足を先に出すというミスも見られるなど、当初は2場所ぶりの復活で「相撲勘」を取り戻せるかどうかが話題となった。注目された初日は琴奨菊戦で快勝するも、2日目の稀勢の里戦では豪快な送り倒しを決められ、早くも土がついた。また3日目には観戦していた内館横審委員を土俵上で睨みつける(本人は否定)[6]など、本来の横綱の風貌が戻ってきた。その後は不安定な取り組みがありながらも勝ち星を積み重ね、14日目まで1敗で東横綱の白鵬と並び、2002年9月場所の武蔵丸 - 貴乃花戦以来、約5年半ぶりの横綱同士による千秋楽相星決戦となったが、過去に類を見ない白熱した大一番の末、白鵬に豪快な上手投げで破れた。

2008年3月場所では11日目までは全勝で、2敗で追う白鵬を引き離していたが、12日目で土がつき、翌13日目では対朝青龍戦28連敗中だった大関琴光喜が、連敗記録歴代2位[7]という屈辱の記録に終止符を打った。そして14日目には両横綱共に2敗で並び、1995年3月 - 5月場所の貴乃花 - 曙戦以来、約13年ぶりの2場所連続の千秋楽横綱相星決戦となった。結果は朝青龍が小手投げで勝利し22回目の優勝を決めた。この優勝で優勝回数が貴乃花と並んだ。

 
2008年5月場所で問題となった「にらみ合い」2008年5月場所では、出場停止中だった2007年11月場所以来の東横綱となったが、初日に稀勢の里に敗れた。その後は連勝したが11日目にこの場所初優勝した琴欧洲に敗れ、翌日以降さらに千代大海、魁皇にも敗れて3連敗となり、優勝候補から外れた。翌日は琴光喜に勝って連敗を止めた。千秋楽では横綱白鵬に引き落としで勝ったが、この直後に負けて土俵上で四つんばいになっている白鵬を横から駄目押し、その行為に対し白鵬が立ち上がりながら朝青龍に右肩をぶつけ、両者がにらみ合う事件が起こった[8]。この事件で北の湖理事長が朝青龍と白鵬を厳重注意した[9]。

2008年7月場所では、場所前の稽古不足や右足首痛などで不安視されたが、それが的中してしまった。初日に豊ノ島に上手投げで敗れた後2日目から3連勝したが、5日目に栃乃洋に押し倒しで敗れた際に左肘を痛め6日目から途中休場。朝青龍の休場は2007年11月場所以来、途中休場は2006年5月場所以来のこととなった。

2008年9月場所では中日までに、雅山、安美錦、豊ノ島に敗北した。豊ノ島戦はテレビ映像では微妙で抗議もあった[10]が、砂に足が付いた跡が残っていたとされる[11]。

引退説まで囁かれたが、大鵬と九重理事(元千代の富士)ははいずれも「(まだやれる事を)考えるべきだ」と述べた[12]。9日目までの5勝4敗という成績を受け、この日武蔵川理事長は休場を勧告し、10日目から休場することとなった。2場所連続休場はサッカー問題で出場停止処分を受けた2007年9月場所と11月場所を除けば自身初となる[13]。武蔵川理事長は復帰後の場所で、進退がかかることを示唆し[14]、朝青龍も進退をかけることを明言した[15]。11月場所は休場。

2009年
2009年1月場所は、場所前の横綱審議委員会稽古総見では調子が良くなく、進退問題も取り沙汰される状況で臨んだが[16]、初日から14連勝と次第に調子を上げ、千秋楽では本割の一番は立ち合いを失敗して白鵬に敗れたものの、優勝決定戦では本割と一転して厳しい攻めで白鵬を寄り切りで下し、貴乃花光司を抜き歴代単独4位となる通算23回目の優勝を果たした。

場所前はマスコミは進退問題をこぞって取り上げたが、優勝後も「相撲内容は安定感を欠いた」「稽古は不十分」「力の衰えを感じさせた」とバッシングを続けている。中には「4日目までに2勝2敗、7日目までに4勝3敗だったら、引退に追い込まれていたかもしれない」(産経新聞・奥山次郎)[17]、「軍配は白鵬、動が静をわずかに上回った」(毎日新聞・武藤久)[18]とタラレバを論った批判まで存在する。2009年3月場所は、初日から9連勝と全く隙のない相撲を見せていたが、10日目に過去14勝2敗と圧倒していた日馬富士に敗れてからは自分の相撲が取れず、結局11勝4敗に終わった。場所後、日馬富士戦で肋骨骨折していたことが判明した[19]。

2009年5月場所直前、朝青龍は申請していた日本国の永住権を取得したことを明らかにしたが、今のところ親方として相撲協会に残る際に必要となる帰化は行っていない[20]。

2009年7月6日、オフィシャルブログにて夫人と離婚していたことを発表した。

2009年9月場所は、初日から14連勝。全勝優勝がかかった千秋楽で横綱白鵬に寄り切りで敗れたが、優勝決定戦ではその白鵬をすくい投げで破り、北の湖に並ぶ通算24度目の優勝を果たした。なお、この日は自身の29歳の誕生日でもあった。

2009年10月、M資金詐欺で1億2000万円を騙し取られていたことが週刊誌で報じられた[21]。

2009年11月場所は、初日から11連勝したがその後4連敗し、11勝4敗で終わった。

2010年
2010年1月場所は千秋楽前の14日目に優勝を決め2場所ぶり25度目の優勝を果たしたが、千秋楽では白鵬に寄り倒され13勝2敗の成績となった。白鵬戦は7連敗となり、横綱同士での対戦成績としては男女ノ川が双葉山に喫したワースト記録に並んだ。

引退
2010年1月、場所中の1月16日未明に泥酔して暴れる騒動を起こしたと写真週刊誌に報じられ、場所後に日本相撲協会の武蔵川理事長から厳重注意を受けた[22]。さらに、別の週刊誌の報道で、被害者が当初、名乗り出た一個人マネージャーではなく一般人男性だったことが発覚[22]。2月1日には、同協会の(理事選挙後の)新理事会で、調査委員会の設置が決まった[23]。

2010年2月4日、日本相撲協会の理事会で事情聴取を受けた後、暴行問題の責任を取る形で現役を引退することを表明した[24]。

朝青龍引退の報に、讀賣新聞社が号外を発行し、また同日夕方のテレビ各局のニュース番組が緊急特集を組むなど大きな反響を呼んだ。またライバルの白鵬翔が記者会見を開いて、「信じられない。まだやり残したことがあったと思う」と語るなど[25]、角界内部でも衝撃の大きさが伺われた。


概略 [編集]
 
コカ・コーラとその中の気泡
アメリカ合衆国 コカ・コーラのバン
(シボレー・アストロ)19世紀にアメリカ合衆国で発明された世界初のコーラ飲料とされる[1]。ジョージア州アトランタ発祥。現在も本社はアトランタにあり、同地にある "World of Coca-Cola" という博物館には多くの観光客が訪れる。博物館では世界各国のコカ・コーラの味を比較できる。

その原液は、アメリカ合衆国で調製されて世界中に広く輸出されており、世界各地のボトリング会社によってコーンシロップ、砂糖などで薄められ、更に炭酸水で割られて、瓶詰め・缶詰めされ販売される。風味はトップシークレットの香料7xと柑橘系およびスパイス系のフレーバー7~8種類程度の配合によるものと言われる。 7xの成分はコカ・コーラ社のトップシークレットであり、成分を知っているのは最高幹部のみである。脱コカイン処理されたコカの葉が成分の一部として含まれる。

7xはレモン・オレンジ・ナツメグ・シナモン・ネロリ・コリアンダー・(コカ)の6種(7種)をアルコールで抽出したものだと言われている。この7xとその他のフレーバーの配合レシピのことを「フォーミュラ」と呼ぶ。フォーミュラは1984年のカンザス計画によって1度だけ変更されたが、抗議運動により3ヶ月で元に戻されて以降は変更されていない(コカインとカフェイン量を除く)。コカ・コーラ社のフォーミュラは非公開であるが、真偽不明の情報がしばしば出回っている。かつてそれを基にしてOpen Colaという製品が作られたが、コカ・コーラの味を完全に再現することはできなかった。

コカ・コーラの名称の由来となっているのは、コーラとコカインの成分を除去したコカの葉(当時はほぼアフリカ産)を原材料に使っていたからである。ただし、どちらもコカ・コーラの主成分ではなく、コーラの種も他のコーラ飲料と同様に風味にほとんど影響を与えない微量である[2]。

 歴史 [編集]
 自然療法とソーダ・ファウンテンからの誕生 [編集]
19世紀末期のアメリカでは、医者不足から代替医療・殊に自然療法や万能薬が広く庶民に多く受け入れられ、自然療法医や薬剤師は自らの治療法や薬剤の売り込みに躍起になっていた。

その一方で、1867年に人工的な炭酸水の製造法が発明されると、当時は何らかの効能があると思われていた炭酸水を客の注文に応じて調合して飲ませるソーダ・ファウンテンが薬局に併設されるようになった。こうして売り出された炭酸水には、当然薬効を謳うものも多く万能薬同様に売り込み競争が激しかった。

そんな自然療法家の一人に、ジョージア州アトランタを拠点に活動するジョン・S・ペンバートン (John Pemberton) がいた。南北戦争で負傷したペンバートンはモルヒネ中毒になっており、中毒を治すものとして当初注目され始めたコカインを使った薬用酒の開発を思いついた。この種の薬用酒には既に類似品が多く出回っていたので、ペンバートンは、ワインにコカインとコーラのエキスを調合したフレンチ・ワイン・コカを精力増強や頭痛の緩和に効果のある薬用酒として1885年から売り出した[3]。

フレンチ・ワイン・コカは「ドープ(dope=麻薬)」と言う渾名で人気を博したが、やがてコカインの中毒が問題となるとともに禁酒運動の席巻によりフレンチ・ワイン・コカが売れなくなる恐れが出てきた。たまたま、うっかり炭酸水を混ぜてしまったものを風味付けのシロップとして売り出すことにして、ペンバートンのビジネスに参加した印刷業者のフランク・M・ロビンソンによってコカ・コーラと名づけられた。このコーラは1886年5月8日に発売されている[4]。

 エイサ・キャンドラーによる発展とボトリングの採用 [編集]
 
1913年のコカ・コーラの広告ペンバートンのコカ・コーラはビジネスとして成功したものの、健康を害したペンバートンは早々とその権利をたった1ドルで売却してしまう。更に権利関係の複雑さから数年間は人から人へと権利が移り裁判で争うこともしばしばだった。

結局、コカ・コーラの権利は1888年にエイサ・キャンドラー(後にアトランタ市長)の手に落ち、キャンドラーはペンバートンの息子らと共にコカ・コーラ・カンパニーを設立する。Coca-Colaのロゴ・Delicious and Refreshing(おいしく、さわやか)のキャッチコピーと一杯5セントの大量販売、更に原液のトレード・シークレットによる機密保護によってキャンドラーのコカ・コーラ・カンパニーは多くの収益を得た。

この時代において特記すべきなのは、瓶詰めの販売方式を採用したことであろう。1899年に弁護士のベンジャミン・フランクリン・トーマスとジョセフ・ブラウン・ホワイトヘッドは、キャンドラーに直談判してコカ・コーラの瓶詰め権利を取得。二人はそれぞれボトリング会社(親ボトラー)を創立し、その会社が更に全米各地のボトリング工場(現地ボトラー)とフランチャイズ契約することでコカ・コーラは広く全米に普及していった。ただ、最初のうちはボトリング技術の未熟から瓶が爆発する事故も頻発し、1913年に品質管理と訴訟対応のためにボトラーをボトラー協会の下に組織化することになった。そして1916年にはコーラの瓶の標準化を行った。

 FDAとの紛争 [編集]
1903年、アメリカ国内でのコカイン販売が禁止される。このためキャンドラーは原液の処方からコカインを取り除くことで事態に対処するが、一方で内国歳入庁との裁判闘争や類似品や商標の侵害に対する訴訟に明け暮れていた。

しかし何よりもキャンドラーを悩ませたのは、ハービー・ワシントン・ワイリー率いるアメリカ食品医薬品局 (FDA) との長きに渡る紛争なのは間違いない。FDAは、コカ・コーラに含まれているカフェインの毒性やボトリング工場の衛生の悪さを問題視し、1909年に原液を押収した上で裁判に訴えた。結局のところ(FDA側の証人の主張が余りに不適切に過ぎたため)コカ・コーラ・カンパニーは裁判に勝ったものの、原液に含有しているカフェインの量を減らさざるを得なかった。

 ロバート・ウッドラフの登場 [編集]
FDAとの紛争に決着がつき、第一次世界大戦下の砂糖相場の乱高下を乗り切ったが、1919年に投資家のアーネスト・ウッドラフがキャンドラーにコカ・コーラ・カンパニーの企業買収をもちかける。キャンドラーは多額のキャピタルゲインを得て経営から手を引き、新たにウッドラフによってデラウェア州で設立された会社が、コカ・コーラ・カンパニーの商標と事業を引き継いだ(このため公式的には1919年設立になっている)。

アーネスト・ウッドラフによる買収から4年が経った1923年、アーネストの息子のロバート・ウッドラフ (Robert W. Woodruff) が父親の反対を押し切って社長の座に就く。以後ロバートは60年以上も同社に君臨し、経営の采配を振ることになる。折りしも1920年代、禁酒法によりアルコールが販売禁止になり、ノンアルコール飲料の売れ行きが伸びた。その中でロバートは、広告に力を入れると共に瓶入りコカ・コーラの拡販にも注力、品質管理を徹底した。

またコカ・コーラが海外へ進出したのもこの頃である。コカ・コーラ本体が原液を製造・供給して、ボトラーが瓶詰めするというスタイルはここでも採用された。特にドイツでは1930年に現地法人の責任者となったマックス・カイトによって売り上げを伸ばし、ベルリンオリンピックでもコカ・コーラを提供する栄誉に与った。しかし、第二次世界大戦が勃発し原液の輸入が制限されると何とか原料を遣り繰りしながら、乳清とフルーツの絞り粕を原料に新たに飲料を製造。これはファンタと名付けられて、後にコカ・コーラの世界的な商品となった。

 「技術顧問」 [編集]
世界大恐慌の打撃は軽微に済み禁酒法の廃止も左程業績に響かなかったものの、1930年代に入るとペプシコーラが低価格路線で販売攻勢に打って出てコカ・コーラの地盤を脅かし始めた。

が、第二次世界大戦が始まると、ロバートは以下の様に宣言し戦争への協力姿勢を示した。

我々は、軍服を着けた全ての兵士が何処で戦っていようとも、またわが社にどれだけの負担がかかろうと、5セントの瓶詰めコカ・コーラを買えるようにする。

加えてロビー活動を熱心に行い、その結果コカ・コーラは「兵士たちの士気高揚に果たす重要な役割」を持つ軍需品として認可。コカ・コーラへの砂糖の配給制も免除される特典も受けた。更に、政府の出資で世界60ヶ所にボトリング工場が建設され、そこで働くスタッフは技術顧問(TO)として軍人同様の待遇が与えられた。

当然のことながらアメリカ軍の指揮官にも、コカ・コーラは人気の的だった。中でもドワイト・D・アイゼンハワーは、1943年6月29日にジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長に以下の電報を送っている。

300万本の瓶詰めコカ・コーラ、月にその倍は生産できるボトリング装置一式、洗浄機および栓を至急送られたし

マーシャルはこの電報を受けて、海外の駐留部隊に必要且つ便利な物品を充分な量入手させよと命令書を発している。

また、ソビエト連邦の指揮官だったゲオルギー・ジューコフも、コカ・コーラが大のお気に入りだった。アメリカの飲み物だと言うことが判らないように、マーク・クラーク将軍を介して無色透明のコカ・コーラを特別注文して密かに送らせている。

指揮官ばかりでなく前線で戦う兵卒にも、コカ・コーラは大人気だった。イタリア戦線ではコカ・コーラ1瓶が4,000ドルの値をつけたこともあり、ソロモン諸島の戦いでは日本の戦闘機を撃墜した褒美としてコカ・コーラ1瓶が与えられたという逸話すら残っている。更にコカ・コーラの空き瓶は、代用の電気絶縁体や(戦闘機のタイヤをパンクさせるための)"爆弾"・(非常食とする)ウミガメを捕るための武器・小便器として使われたりもした。瓶を積めるケースは郵便箱や道具箱として重宝したし、コカ・コーラで歯磨きをする兵士もいれば、恋人にコカ・コーラで膣を洗うのを薦めるのもいたくらいである。

極めつけは、ある技術顧問がカンヌの将校クラブでカトリック教会の神父相手にコカ・コーラで法王に祝福を受けて貰えば?と冗談交じりに話したところ、バルジの戦いで神父が聖水の代わりにコカ・コーラで洗礼を施していたのを目にしたというエピソードであろう。

 資本主義の象徴 [編集]
 
キリル文字のロゴが描かれたコカ・コーラの缶
簡体字のロゴが描かれたコカ・コーラの缶第二次世界大戦にアメリカ軍の軍需品として世界に広まったコカ・コーラは、冷戦の最中資本主義の象徴として扱われることになった。特に海外進出の際に現地でパートナーとした企業の多くが、有力者や大地主・財閥、時にはアメリカ資本の多国籍企業だったりしたことがそのイメージに拍車をかけることになった。

そのため資本主義陣営=西側への反対が、しばしばコカ・コーラへの攻撃と結びつくことも多かった。特にヨーロッパでは、マーシャル・プランに反対する左翼がコカ・コーラ排斥の先頭に立ち、時として民族資本の飲料メーカーや酒造メーカーがこれを後押しするという現象が目立った。

東側への進出でもペプシに後れを取った。ソビエト連邦への進出は1978年まで待たねばならず、アラブ・ボイコットの影響で中東でも進出が進まなかった。逆に中華人民共和国へは、1978年にアメリカ企業として初めて進出を果たし、3年間市場を独占した。

なお、中国法人の名前は『可口可楽』である。コカ・コーラの当て字を見られることが多いが、「可」という字を繰り返すことで好印象を与える効果も狙ったものであった。

 カンザス計画と「ニュー・コーク」の失敗 [編集]
1970年代半ば以降、ペプシがコカ・コーラとの比較広告によって売り上げを伸ばし、各種の市場調査や味覚調査でもペプシに軍配があがるなど、コカ・コーラの先行きには不安が付きまとっていた。

当時CEOだったロベルト・ゴイズエタとCOOだったドン・キーオは、カンザス計画と呼ばれる秘密計画を実行。発売100周年の1986年を前にコカ・コーラの味を根本的に変えるという挙に出た。当時臨終の淵にあったロバート・ウッドラフを説得して綿密な市場調査と広告戦略を駆使、1985年4月24日にニュー・コークとして発売した。

しかし、ニューコークは消費者の不評を買い、コカ・コーラには抗議の手紙や電話が殺到する事態に。わずか2月半後の7月10日には、元のコカ・コーラをコカ・コーラ・クラシックとして再び販売せざるを得なくなっていった。

『コカ・コーラ帝国の興亡』の著者、マーク・ベンダグラストは「ニュー・コーク」の失敗を以下のようにまとめている。

ニュー・コークの大失敗の結果、元のコークは400万ドル以上にも相当する宣伝効果に浴し、その効果と比べればコカ・コーラ社の下手な広告は役立たずも同然だった。今や由緒あるコーラは復活し、再びアメリカ一の清涼飲料の地位を取り戻した。ゴイズエタとキーオは図らずも、このマーケティングの失敗を見事なビジネス上の手柄に変えたのだった。

? マーク・ベンダグラスト『コカ・コーラ帝国の興亡』

 コカ・コーラに関する都市伝説 [編集]
コークロアも参照のこと。

コカ・コーラに関する都市伝説は数多い。民間伝承(フォークロア)とひっかけて、コカ・コーラに関する都市伝説を諧謔的にコークロアと呼ぶ(ブルンヴァン等)。

多くの都市伝説が根も葉もない噂なのに対し、コカ・コーラの場合そのほとんどが部分的に真実を含むのが特徴である。以下、代表的なコカ・コーラ伝説を解説する。

 コカ・コーラの瓶は女性のボディーラインを参考にした [編集]
 
1971年型シボレー・コルベット LT1コカ・コーラの独特の「くびれ」のある瓶(コンツアー・ボトル)は、女性のボディーライン、または、この当時流行したスカートを参考にデザインされたものと言われているが、この話は事実ではない。

くびれを作った理由は、暗闇でも触ってすぐわかるようにするためと、1900年代初めにアメリカでは1,000種類以上の偽物が出回ったので、その類似品対策として、複雑な形の瓶にしたものである。

アメリカン・スポーツカーのひとつ、シボレー・コルベットの3代目(1970年代)モデルは、大胆に膨らんだ前後フェンダーとくびれたように見えるボディ中央部がコーラのビンを連想させたことからコークボトルというニックネームがある。

また、自動車レースフォーミュラ1のレーシングカーは、空気抵抗を減らすために後輪周辺のボディの形状がちょうどコーラのビンを連想させる絞り込まれた形であるため、これもまたコークボトルと称される。レーシングカーデザイナー、ジョン・バーナードが1983年のマクラーレンMP4/1で採用すると、またたく間にその形状は他のチームにコピーされ、現代においてはすべてのフォーミュラ1レーシングカーはコークボトル形状である。

ちなみに、ヴァージン・コーラのペットボトルのデザインは、女優パメラ・アンダーソンのボディラインを模して作られている。

 コカ・コーラには辛口と甘口がある [編集]
コカ・コーラのガラス製瓶には、側面下部に四角型または丸型のへこみが刻印されていた。刻印が四角型の瓶は炭酸の強い「辛口」であり、刻印が丸形の瓶は炭酸の弱い「甘口」であるとする都市伝説がかつて存在した。

実際には、瓶の製造工場ごとに異なる刻印がなされていただけであり、コカ・コーラはリターナブル瓶であったため、ボトラーによる回収再使用過程において、刻印の異なる瓶が混ぜられて出荷されたものであった。この刻印は瓶表面にコーラのデザインをプリントするときに瓶成形金型の割り痕の上にプリント部がこないように方向を規制する為に使われていたものである。瓶製造メーカーの工場設備によって丸型・四角型のほうが固定しやすいといった違いがあったためである。ちなみに丸型が石塚硝子製、四角型が日本山村硝子製となっている。

 サンタクロースが赤い服を着ているのはコカ・コーラのCMが元祖 [編集]
 
サンタクロースが描かれたコカ・コーラのトラック
サンタクロースの起源とされる聖ニコラウス(オランダにおけるシンタクラースの伝統的な装い)
『子供之友』1914年12月号に掲載されたサンタクロースこの都市伝説によれば、サンタクロースはもともとの伝承では緑の服を着ていたが、コカ・コーラ社がCM(看板)でコカ・コーラのシンボルカラーである赤い色の服を着たサンタクロースを登場させたため、赤い服のサンタクロースが広まったことになっている。

しかし、現在のサンタクロースのイメージの元となったとされる、ニューヨークの画家、トーマス・ナストが19世紀に描いた聖ニコラウス像において、ニコラウスは赤いマントを羽織っており、このマントが変化してサンタクロースの赤い服になったのだという[5]。

また、1914年の日本の児童雑誌『子供之友』には、現代のサンタクロースと全く同じイメージの、大人の背丈で白髭に赤い服を着たサンタクロースが描かれている。さらに当時の輸出用クリスマス用品のサンタクロース人形もこの姿でもあった(当時の日本は、第一次世界大戦で疲弊した欧州に代わって、世界一のクリスマス用品生産国となっていた)。従って遠く日本にも伝わるほど定番となっていた赤い服のサンタクロースの姿を、1931年になってからコカコーラ社が広告に採用した、ということが事実である[6][7]。

 コカ・コーラは民主党、ペプシコーラは共和党 [編集]
コカ・コーラ社は民主党と親しく、ペプシコーラ社は共和党と親しいため、「米大統領が交代すると、ホワイトハウス内のコーラも代わる」とする都市伝説があるが、現実には共和党出身の大統領だったドワイト・D・アイゼンハワーと親しかったりするなど共和党とも無縁と言うことは無く、あくまで噂の範囲を出ない。ちなみにコカ・コーラの筆頭株主であるバークシャー・ハサウェイ社を率いるウォーレン・バフェットは民主党支持者としても有名である。

 コカ・コーラの成分に関する都市伝説 [編集]
コカ・コーラ社が香料のレシピを公開していないことから、原材料に関しても様々な都市伝説が生まれている。

そのひとつに、コカ・コーラのレシピを知っているのは2人の重役だけというのがある。2人である理由は1人が突然事故などで死んでももう1人が知っているので存続できるからである。それ故この2人が同じ飛行機に搭乗することはないという。[8]。

ブタの血が材料に含まれているという噂が流れたときには、ブタの食用を禁じるイスラム教徒への売り上げが激減したという[2]。

 月面のコカ・コーラの瓶 [編集]
オーストラリアのバーク地方のみに流布されている都市伝説である。アポロ計画で月から中継された映像で、宇宙飛行士がコカ・コーラの瓶を蹴っていたというものである。月着陸10周年記念に放送されたオーストラリアのラジオ番組内でのギャグから広まったものと見られている[9]。




Test2010/02/01


てす2010/01/27





トラの体(てい)でたたずむ

sample2010/01/27

公園を散歩して、ふと空を見上げたら…
た、たいへんです! 未確認飛行物体を発見しました!!!!
編隊飛行中の未確認飛行物体!!
なーんて、ウソです。 子供達ががあげていた凧でした!
こんな面白い形の凧があるんですね! よ~く見ると・・・・

よくみたら・・・カエルちゃん^-^
凧には、カエルの絵が描いてありました。 カワイイ!

てすと2010/01/26


おおお

トラ…ではなく、ライオンの赤ちゃん